としょかんのへや
2012年01月01日
No.69 「詩ふたつ」
あけましておめでとうございます。みなさんはどんな新年をお迎えでしょうか?昨年はいろいろなことが起こりました。中でも日本各地で起きた自然災害が印象に残っています。
未曾有の被害をもたらした東日本大震災や、台風12号の影響による和歌山・奈良での土砂災害では沢山の命が奪われました。亡くなられた方たちは、きっと恐怖と悔しさと不条理を握りしめて最期のときを迎えたことでしょう。そして、最愛の人を失った人、故郷を失った人、生活が根底からくつがえってしまった人・・・被害に遭った方たちが今どんな思いで新しい年を迎えているのだろうかと思うと胸が痛みます。喪失の悲しみは時の流れが癒してくれるとよく言われますが、本当にそうでしょうか。大切な人を亡くした人たちにとっては、過去のできごとではなく、今なお忘れることのできない現在のこととして胸の内にあるでしょう。悲しみに終わりはあるのでしょうか。まわりのなぐさめの言葉や励ましの言葉は却って負担になっているかもしれません。
長田弘の詩集『詩ふたつ』のあとがきにこんな一文があります。
「・・・人という文字が、線ふたつからなるひとつの文字であるように、この世の誰の一日も、一人のものである、ただひとつきりの時間ではありません。一人のわたしの一日の時間は、いまここに在るわたし一人の時間であると同時に、この世を去った人が、いまここに遺していった時間でもあるのだということを考えます。亡くなった人が後に遺してゆくのは、その人の生きられなかった時間であり、その死者の生きられなかった時間を、ここに在るじぶんがこうしていま生きているのだ・・・」「・・・心に近しく親しい人の死が後にのこるものの胸のうちに遺すのは、いつのときでも生の球根です。喪によって、人が発見するのは絆だからです。」
先に逝ってしまった人が生きられなかった時間を共に生きていってほしいと思います。静かな夜、そんなことを願いながら新しい年を迎えました。今年一年が何の不安もない穏やかな年になりますように。
図書館は1月5日より通常開館いたします。今年もどうぞよろしくお願いいたします。
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長田弘/著 グスタフ・クリムト/画 クレヨンハウス 2010
わたしたちが死んで
わたしたちの森の木が
天を突くほど、大きくなったら、
大きくなった木の下で会おう。
わたしは新鮮な苺をもってゆく。
きみは悲しみをもたずにきてくれ。
そのとき、ふりかえって
人生は森のなかの一日のようだったと
言えたら、わたしはうれしい。
「人生は森のなかの一日」より